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1999年シーズンから始まった、スプリント・レース選手権。シリーズ・ランキングを決定するのは、全7戦の合計獲得ポイントである。必然的に、ライバルよりひとつでも多くのレースに出場できた者が有利となる−そのことはもちろん、開幕前から全員が理解していたことであり、シリーズ戦である以上やむをえないことであろう。また、1シーズンを通
じて、様々な気候や気温、そして新たなるライバル等、目まぐるしく変わるコンディションの中、コンスタントに結果 を残し、ポイントを積み重ねていったものが最終的にシリーズ・チャンピオンとなることに、異義をはさむ者は多くはあるまい。
レースでは、「もし〜だったら」というのは禁句である。だが、ここでは敢えて、その禁を犯してみたい。
「もし、GH笹森が全戦参加していたら?」
GH笹森の名前を、タオラー太田やタックイン安部に置き換えてもよい。今季の結果
に、このような疑問を抱かなかった者がひとりとしているだろうか?以下のランキングは、このレースの立案者であり競技長でもある私が、モータースポーツ歴20年で培った知識と経験と独断と偏見を総動員して、その疑問に答えんとするものである。
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10位 9位 8位 7位
6位 5位 4位 3位
番外 2位 1位
10. JA共済その2/スコッテー八戸/ペロン井上/パキスタンカリー/
エレキング寺倉
10位には、スポット参戦ながらその僅かなチャンスに光り輝いた才能の持ち主達がランクインした。
JA共済その2は、シリーズ第2戦に、JA共済その1とともに突然当日参加。その1は予選落ちとなってしまったが、JA共済その2の方はMVS初走行とは思えぬ
走りを予選から披露。決勝でも常連2人の一騎打ちに割って入る快走だった。その走りは後に、耐久でもいかんなく発揮され、チームJA共済をデビュー戦トップランに導いた。
スコッテー八戸は、知る人ぞ知る'95フォルサ・カップ(MVSレース・シリーズの前身。バンケイで開催されていた)の、記念すべき開幕戦ポールシッター。当時延長されたばかりで誰にとっても初コースだったバンケイでのPPは、彼のナチュラルなドライビング・センスを立証している。その彼のMVSデビュー戦は、Rd.2。予選こそフロントローを奪取したもののレースではスピンを連発し7位
。しかしその後、耐久チーム川田フィッシングクラブのエースとして安定感を身につけ、第4戦では耐久・スプリントとも3位 表彰台ゲットというビッグ・リベンジを果たした。
この2人とは逆に、まず耐久で力を魅せ、スプリントにも挑戦してきたのがペロン井上とエレキング寺倉だ。
チーム岩石オープンが、初参加した耐久第3戦で予選落ちを喫したとき、チームのエースであるペロン井上が感じた悔しさと責任感は、普通
ではなかったはずだ。エースの責任を果たし、自らの速さを証明すべく、彼は続く第4戦、耐久/スプリントにダブルエントリー。結果 には結びつかなかったものの、両レースでトップを走り速さを実証した。
一方のエレキング寺倉は、今季耐久で3強に次ぐ第4のチームとして恐れられたTKの、若きエース。耐久デビュー当初から、そのスピードは関係者が目を見張るものがあり、スプリント・デビューが待望されていた。そして遂に第6戦。はじめてのスプリントに臆することなく、周囲の期待に応えて第1ヒートをブッチギリ。第2ヒートではタックイン安部の猛追を真っ向から受け止め、激しいバトルを展開した。両雄の激闘が、最終ラップ最終コーナーで接触→エレキング寺倉はファーストチェッカーを受けながらも失格、という形で終わってしまったのは残念だが、個人的にはこのバトルは、今シーズンのベスト・バトルだと思っている−2人の闘志と、若さゆえの意地が燃え上がり、昇華した結果
なのだ。
この、若さゆえの激しさと好対照をなす、老獪な熟練したテクニックで我々を魅了したのが、パキスタンカリーである。
一度でもカートに乗ったことのある者なら誰でも知っているように、これは強靱な体力を必要とするスポーツである。特にMVSのレンタル・カート、SuperFK-9は、レンタルとして使うには危険なほど(?)速く、激しいマシンである。そしてMVSのコースも、地形をフルに活かしたチャレンジングなレイアウトであり、これまたドライバーの肉体的には厳しいものがある。そのハードなコースを、スプリント決勝では50周しなければならない。それはまさしく、タフ・スポーツなのだ。私個人の経験から言っても、20代の若手はともかく、30代後半の衰え始めた肉体には、50周は辛い。
ところが、パキスタンカリーは30代どころか、なんと57歳である!その飄々とした風貌や、静かな語り口からは想像できない体力と集中力からは、彼が本当にモータースポーツを愛していることが伺い知れる。そして、ただ最年長だというだけではなく、その経験に裏打ちされた完璧なコントロールは、Rd.5で、いわずと知れたトップ2−GH笹森etc.をサウストップでごぼう抜きにするなど、関係者を唸らせるに充分な、ファンタスティックなものだった。ドライバーとしての技術では、パキスタンカリーが今季のナンバーワンだというのが、家元及び師範の一致した見解である。
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9. M.C.シルバ
彼をこの位置、エレキング寺倉やパキスタンカリーetc.よりも上位
にランクすることの是非については、意見が別れるところだろう。彼が初めて我々の前に登場した時にはそのスピードが注目されたが、その後ティ〜ム★キャイ〜ンの主力として耐久の常連となるにつれ、彼に対する評価は別
の方向へと移っていった。その特徴的なドライビングフォームはもちろんだが、それよりもむしろ、マナーの悪さが目立ってしまったのだ。レース中コース上で彼に追いつき、その危ういブロックに閉口したドライバーも多いはずである。かくいう私も、公の立場から彼に注意や警告をしたのは一度や二度ではない。その私が、M.C.シルバを敢えて9位
にランクインさせた最大の理由は、”継続は力なり”を実践したことにある。
モータースポーツ全般において、前述した肉体的な強靱さが要求される部分で他のスポーツと比較して特殊なのは、首の筋力である。前後左右上下、あらゆる方向から、レーシングスピードで走るドライバーの首には強いGが襲いかかる。そのGに耐え、視線を一定に保持することが、マシンの姿勢をコントロールする上ではとても重要なことだ。M.C.シルバの特徴的なドライビングフォームは、なにも本人が意識してやっていることではなく、首の筋力がGに負け、頭部をもっていかれているだけのことなのである。だが、シリーズも終盤に入った頃から、彼のドライビングフォームは明らかに変わって来た。それまでレンタルメットを使っていたのが、フルフェイスのマイヘルメットを新調し、頭部の重量
は増しているにも関わらず、首が座ってきたのだ。その効果はラップタイムにも明確に現れたばかりか、走行ラインも安定し、周囲(特に後方)に気を配る余裕もでてきたようである。これは全て、彼が毎回北見から、たった独りでMVSに通
い、練習を重ねた賜物であろう−首というのは、鍛えるのがなかなか難しい部分であり、サーキットでレーシングラップを重ねるのが最も効果 的なトレーニングなのだ。
耐久は2戦目、スプリントは3戦目以後フルエントリーした成果がそこに、そしてスプリントRd.6の2位 表彰台というリザルトとして残されている。イベントデイだけではなく、たった10周のレンタル走行をするためでも、わざわざ北見フ札幌を日帰りする彼もまた、我々と同じくモータースポーツを愛する1人なのである。
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8. ピロボール馬場
MVSの常連達の中でも、特に優れたドライビングセンスを持つ者に与えられる名誉ある称号、師範代。僅か6人しかいないそのエリート達の1人が、このピロボール馬場である。本来なら、彼ら師範代6人がこのランキングのトップ6を独占するのが自然だろう。彼のスピード、テクニックetc.は、さすが師範代!と言えるだけのものがある。ではなぜ8位
なのか?
私から見てピロボール馬場に足りないもの、それは精神的余裕である。
彼はよくキレる。当てられた時、バトルに負けた時、タイムが伸びない時…彼は人一倍、よくキレる。そして、レースでは最も重要なファクターの一つである、冷静さを失ってしまう。結果
、それさえなければ残せたであろう、本来の実力どおりのリザルトから、大きく遅れてしまうのだ。
誤解を招く前に言っておくと、私は彼の実力をとても高く評価している者の1人である。また、彼の怒り、テンションの高さが、自らのコンセントレーションを高めるための手段であることもよく理解している。'99年前半戦では、まだ成長過程にあったチーム・サーティースの、孤高のエースとしてのプレッシャーも大きかったことだろう。だが、彼の真の実力をもってすれば、今季のリザルトはこんなものではなかったはずだ。
本人にはちょっと酷なことを書いたが、これも全て、私のピロボール馬場に対する期待が大きいが故である。彼の素晴らしさのひとつに、その研究熱心さがあげられる−そう、彼が独自にあみだした必殺技、ピロマジックだ。この技は、予選などで一発のタイムが必要な時、絶大な効果
を発揮する。といってもコンマ3秒ほどタイムアップできるだけだが、そのコンマ3秒に賭ける貪欲さ、そして挑戦する意志の力…これをいつまでも持続し、冷静な集中力を身につければ(そして、陸上生活期間のタイミングがあえば)、2000年のピロボール馬場にとって、シリーズ・チャンピオンは現実的な目標である。
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7. ココリコ田中
”彗星のごとく”とは使い古された言い回しだが、ココリコ田中のデビューには、この形容がはまり過ぎるほどはまっていた。6月、MVSにふらりと現れた若干19才の若者が、カート初体験でいきなり、コースレコードを塗り替えたというのだ!この時私は残念ながら不在だったが、常連ばかりが上位
を占めるシリーズ戦に初夏の嵐が巻き起こる予感を、嬉しさとともに感じたことは言うまでもない。
我々の執拗な説得に折れ(2万円に釣られたという説もあるが)、スーパールーキーココリコ田中は第3戦、遂にレースデビューを果
たす。このレースはしかも、それまでのスプリントとは一線を画す、ビッグ・レースであった−当時まだその称号はなかったとはいえ、後の師範代6人が全員揃い、他にもレース経験豊かな常連達がエントリー。まさにオールスター戦の様相を期し、約半数が予選落ちを強いられるというかつてない激戦となったのである。
この、お膳立てされたかのような檜舞台で、ココリコ田中は文字どおり彗星のごとく光り輝いた。予選ではまず師範代2人を喰って堂々の5番手。初体験のフォーメーションラップでスピンし最後尾に回ったのは御愛嬌として、そこからなんと、GH笹森以外の師範代全員をブチ抜いて第1ヒート2位
!マシンが替わった第2ヒートでも、巧者タオラー太田に抜かれた最終ラップまでそのポジションをキープし、初レースで3位
表彰台に立つという驚愕のデビューを飾ったのである。
ところで、”レーシングドライバー”と”レーサー”の違いを御存じだろうか?ボクシングで、頭脳的テクニックを駆使する選手を”ボクサー”、何も考えず戦闘意欲むきだしで戦う選手を”ファイター”と呼びわけるように、モーターレーシングの世界でも古くから、この2つのタイプは区別
されてきた。近年では、M.シューマッハが”レーシングドライバー”、ハッキネンが”レーサー”だと言えよう。ココリコ田中は、疑うことなき”レーサー”タイプである。もって生まれたナチュラルな天性に全てをゆだね、ひたすら速く、前へ前へと突き進む…彼がもし、レース中になにかを考えているとしたら、その時脳は右足にあるに違いない!それが露見したのが第4戦。第1ヒートでベストマシンを手にした彼は、ここぞとばかりにブッチギリ。だが、大きなマージンを持って望んだ第2ヒートでは、レギュレーションで最低のマシンに乗ることとなり、最終的に2周遅れの7位
という、惨澹たる結果に終わってしまう。これは不運でもなんでもなく、レギュレーションを理解していれば避けられた当然の結果 だった。
ココリコ田中は、彼にとって3度目のレースとなる第6戦で、望みどおり2万円を獲得した。だがそれは、トップを争っていたエレキング寺倉とタックイン安部が最終ラップで接触し脱落した後を受けてのタナボタ優勝であり、決して心底喜べる勝利ではなかったはずである。そして2000年シーズンの彼は、一身上の都合でシリーズ戦へのエントリーが危ぶまれている−これは私にとっても、非常に残念なことだ。
私は昔からずっと、ボクシングなら”ファイター”、そしてレースではもちろん、”レーサー”のファンなのだから…。
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6. ボーダーライン嶋木
ココリコ田中と同じ19才デビューながら、実に対称的なシーズンを送ったのが、このボーダーライン嶋木である。
「レースをやりたい。レーシングドライバーになりたい」という夢を持ち、その第一歩としてMVSレース・シリーズを選択したボーダーライン嶋木は、趣味としてレースを楽しむ参加者の多いパドックでは異彩
を放つ存在だった。セッションの合間に、談笑する他のドライバー達の輪から独り距離を置き、次の走行に向けてイメージトレーニングをするその姿は、一種ドラマチックでさえあった。だが、望みどおりに物事が進まないのが夢追い人の常である。第1戦・第2戦では、予選から四苦八苦、最後尾でかろうじて進んだ決勝でも(エントリーネームの由来はここにある)、センスをちらつかせたものの体力不足からスピンを連発。第3戦ではなんと遅刻!出走できずに終わってしまう(この時出走不可を言い渡したのはもちろん私だが、彼の表情を目前にして、心を鬼にする必要があった)。
だが、明けない夜、止まない雨はない。冬来たりなば春遠からじ、である。彼の当面 の課題であった体力は、レースを重ねるうちに、経験とともに着実に蓄積されていった−第5戦で、彼の努力は遂に実を結ぶ。予選でまず、ボーダーラインの名を返上して自己ベストの5位
。そして迎えた決勝では、なんとGH笹森を従えての2位 をゲットしたのである(この時の表彰台をみつめる私の眼には、光るものがあったことを告白しておく)。そして第6戦では、見事ポールポジションを獲得!決勝では惜しくもペナルティで後退したものの、それまでは堂々たる走りでトップを快走した。振り返ればこれが今季のボーダーライン嶋木のベストレースであり、ココリコ田中のように優勝することはできなかった。だが、彼の熱意、彼のモチベーション、そしてモータースポーツに望む姿勢は、明らかにココリコ田中を上回っているのだ。
ボーダーライン嶋木もまた、2000年のMVSにその姿を見せることは少ないかも知れない−しかしそれは、未来を見据えた彼の新たなる一歩である。公の立場を離れ、かつて同じ夢に賭けた個人として、私はそれを心から希望したい。
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5.ストーカー三盃
かつては、GH笹森やグランツマスター川口らとともに、MVSの揺るぎない最速四天王であり、現在も師範代の一角をなすストーカー三盃だが、今季は若干、影が薄かった感がある。スプリントは僅か2戦しかエントリーせず、3位
が一度あるだけ。耐久でもスピンばかりが目立っていた。つまり本来ならば(リザルトだけを見れば)、こんな好位 置にランクされることはなかっただろう。
しかし、これは私の独断と偏見が最優先されるランキングである。私の中でストーカー三盃がTOP5にランクされる理由−それはひとえに、彼のドライビングスタイルにある。
私が子供の頃好きだったF1ドライバーのひとりに、ロニー・ピーターソン(Ronnie Peterson)という”レーサー”がいる。チャンピオンにもなることなく、優勝回数もさして多かったわけではないが、人気は非常に高かった。世界中のファンが、”サイドウェイ(横走り)・ロニー”の異名を馳せる彼のドリフト、というよりはスライド走法に酔ったのである。
ストーカー三盃は、MVSのロニー・ピーターソンだと言っても過言ではあるまい。
目を閉じていても、カン高いスキール音が、彼が最終コーナーに飛び込んできたことを知らせてくれる。そこには、青白いタイヤスモークに霞んで、鷹のような眼がヘルメットの奥にきらめいている。フロントタイヤはあらぬ
方向を向き、マシンは真横に、コーナーを切り裂くように飛んでいく。背景は劇画の効果 線のごとく流れ、そこにだけ突風が吹いたかのような錯覚に襲われる。そして我々が感嘆している間もなく、次のラップも、また次のラップも、彼は同じことを正確に、リプレイを見ているかのように繰り返すのだ。
耐久での、ティ〜ム☆アイ〜ンのあまりに強い印象のため、個人としてよりもアイ〜ンの一員として見られることの多いストーカー三盃だが、そのドリフトコントロールで彼の右に出る者はいないだろう。彼がロニー・ピーターソンを彷佛とさせるのは、なにもコース上に限ったことではない。近年のF1ドライバーとは違い、自らの金銭的価値や社会的地位
には無頓着で、純粋過ぎるほど純粋だったロニーのように、ヘルメットを脱いだストーカー三盃もまた、物静かでピュアな好青年である。社会人となってクールな落ち着きを身につけたことで、持ち前のシャイで不器用な男らしさが、むしろかっこよくさえある。一途であるが故につけられたストーカーというエントリーネームがすでに定着してしまっているため、今さら不可能な話だが、できることなら”サイドウェイ三盃”と改名して欲しいものだ…絶対不可能な話だが。
あと少しだけ、彼の走りを語らせてもらおう。レース中、最終コーナーを立ち上がり、ピット前を駆け抜けていく時、彼の鷹のような眼は一瞬、より鋭く、熱く光り輝く。その眼光は、あらゆるコーナーに挑んでいく彼の、戦いののろしなのだろうか?迫りくる1コーナーのクリッピングポイントを見つめ、挑戦状をたたきつけているのか?それとも…。
ピット前には、実況席があることは言うまでもない。
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4.タオラー太田
ここで改めてお断りしておくが、これはスプリントを対象としたランキングである。タオラー太田の1999耐久シリーズにおける、チャンピオン・チームRe-birseの不動のエースとしての活躍は、シリーズMVPを獲得していることでも明らかである。しかしスプリントでは、どうだっただろうか?
冒頭でも述べたように、そもそも私がこのような文章を執筆しているのは、スプリント・シリーズの結果 に一抹の疑問が生じたからである。それは、チャンピオンを獲得した個人がどうのというよりは、タイトルが決定した時期があまりに早すぎたということに端を発している。競技長としての立場からは、こんなことは口が裂けても言えることではないが、主催者としての立場では、やはりチャンピオン争いは最終戦までもつれ込んで欲しいというのが正直な気持ちだ。タイトルが最終戦以前に、しかもチャンピオンが不参加だったにもかかわらず決定してしまう、などという事態は、主催者にすればなんとしてでも避けたい最悪の事態なのだということを理解して欲しい。主催者が望むのは、常にドラマティックなレースなのだ。
事態のA級戦犯、それが'99スプリントでのタオラー太田である。シリーズ開幕前には、タイトル・コンテンダーとして非常に有力なドライバーだと見られており、本人も充分にそれを意識した発言を繰り返していた−「全部勝つ!」とまで言い切っていたくらいである。そして、序盤の3戦は連続で表彰台をゲットし、着実にシリーズポイントを稼いでいた。特に、ココリコ田中を最終ラップで逆転し2位
を奪取した第3戦など、そのレース運びはドラマツルギーに溢れ、シリーズ後半戦に向けて逆転チャンピオンのドラマが期待されていた。
大きな期待は、裏切られた時により大きな落胆となって撥ね返ってくる。
「全部勝つ!」どころか、第4戦以降、スプリントのエントリーリストにタオラー太田の名前が見られるのは、概にチャンピオンが決定してしまっていた最終戦まで待たなくてはならなかった。タイトル争いの逆転ドラマはすっぽかされ、シリーズとしての興味は失われた。耐久シリーズが盛り上がっていただけに、よけい寂しさが際立ってしまった。全ての責任がタオラー太田にある、とは言わないが、彼にはもう少しがんばって欲しかったと思うのは、私だけではないだろう。
さて、ここからはフォローである。彼の速さ、巧さ、確実性は、あらゆるシーンで抜きんでている。特筆すべきは、その集中力だ。'98耐久Rd.1のSS(各チーム代表ドライバーによるワンラップ・アタック)、'99耐久Rd.6のジムカーナ(初体験だったにもかかわらずトップタイム)。その他にも、非常に重大なプレッシャーがかかる場面
でこそ、持てる最大限の能力を発揮できるドライバー…それがタオラー太田である。耐久だけではない。極めつけは、秋に開催された師範代レースだ。非公式ながらシリーズレギュレーションそのままに行われたこのスプリントレースの、エントリーの豪華さは史上最高。主な師範代に加え、MVS道場師範、家元までもが真剣に勝つつもりで参加したビッグイベントで、彼は見事に優勝を飾ったのだ。彼が今季のスプリントシリーズで、その実力に見合った結果
を残していないのは、ひょっとするとプレッシャーが物足りなかったからなのかもしれない。
エキサイティング、エモーショナルなドライビングの影に秘められた、経験に裏打ちされた理論と計算のエンスージャスト。Re-birse をチャンピオン・チームへと押し上げた今、2000年にタオラー太田が挑むべき目標はただひとつ。今年から始まる師範代レース・シリーズを制覇し、真の王者が誰かを証明するのだ。彼なら、それが可能である。
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このカウントダウンも、いよいよTOP3を残すのみとなった。この辺で少しの間、ピットロードへと向かおう。
これまでに何度か繰り返してきたように、このランキングはスプリントで活躍したドライバーを対象としている。その上で、実際のシリーズポイントやリザルトにはこだわらず、記録よりも記憶に残るドライバーにスポットライトを当て、私個人の評価を下してきたつもりだ。しかし、個人的とは言っても、私はあくまでも競技長であり、主催者であるし、結果
は結果である(ある男は「勝てば官軍!」と開き直っているようだが)。実際のポイントランキングを完全に無視し、結果 を残していない者を感情論や個人の好みだけでランクインさせるのは、さすがにやり過ぎだろう。
だがそれでも、その中には強いインパクトを残したドライバーが何人かいる。
たとえば、オールスター戦となった第3戦。あれだけのエントリーがなければ、確実にポイントランキングに名を連ねたであろう、オロナミン・クドーやDVN-SARD。
第4戦。全くのカート未経験者だったにもかかわらず、GH笹森のアドバイスを瞬く間に理解し、コンソレーション・レースとはいえ、MVS史上初の女性ウィナーとなったじどう いちこ。
第5戦では、若干16才、最年少エントラントのクールラン・サトシがデビュー。
再びエントリーが激増した最終戦。なんと2/3が予選落ちするという厳しい条件下で、常連達を押し退けて決勝に残った、トップリミット佐々木。
この他にも、開幕戦ではあの、チーム・サーティース監督がコンソレーションを制しているし、全戦参加のスパロー、一部の関係者が毎回、エントリーを待ち望んでいたポストン軽木など、名前を上げだしたらきりがないほどだ。
それでも、もうひとりだけ、1999RSCシリーズポイントはゼロだが、どうしてもここでクローズアップしたいドライバーがいる。
0(番外).グランツマスター川口
説明不要、ティ〜ム☆アイ〜ンの頭脳、グランツマスター川口である。頭脳とは言っても彼自身、師範代の1人であるばかりか、'99シーズン開幕から6月にココリコ田中にブレイクされるまでずっと、MVSのコースレコードを保持していたくらいである。ドライバーとしても、このランキングが'99スプリントに限ったものでなければ、必ずや上位
を賑わしていたことだろう。
彼は基本的に、孤軍奮闘を強いられるスプリントよりも、仲間と共に戦える耐久レースの方が好きなようである。'99RSCに彼がエントリーしたのは、僅かに1レースだけ−それも、7位
ノーポイントという結果に終わっている。しかし、くどいようだが、これはスプリントを対象としたドライバーズ・ランキングである。私が彼をここで取り上げたのは、そのレース−グランツマスター川口の唯一のスプリント、第3戦について書きたかったからなのだ。
このレースにエントリーするにあたって、グランツマスター川口は敢えて、カートナンバー”0”を選択した。これは、エントリーリストの1番上に記載されることによって、傲慢にもNo.1をつけたあの男に少しでもプレッシャーを与えようという緻密な戦略であった。そう、グランツマスター川口がこの時に限りスプリントに参戦したのは、総てがあの男を潰すためだったのだ。決勝でも、スタートから序盤にかけてはターゲットを押さえ込んでいたが、グランツマスター川口の本領が発揮されたのは、不覚にもスピンをきっした後である。彼は素早く作戦を切り替え、故意に周回遅れとなってターゲットの前を走行し、あの男に敗戦の苦味を思い知らせた立て役者となったのだ。
グランツマスター川口が自らスプリント・シリーズに出場したのは、この1戦だけであった。だが、その後も彼は参加している−アイ〜ンのチームメイトGH笹森の、頼れる作戦参謀として。その知将ぶりは、GH笹森の好成績が証明している。2000年はその頭脳を、自分自身のために使ってもらいたいものである−深い意味で、だ。
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3.タックイン安部
1999年も後半になってからMVSに登場したルーキーであるタックイン安部が第3位
にくることを、意外と思う向きもあるだろう。だが私は別に意外性を狙ってこのランキングを作ったわけではない。師範代の称号こそ持っていないものの、彼のスピードは、あるいはMVSナンバーワンかもしれないと思っているのだ。
タックイン安部のMVSデビューは耐久だったが、この時は正直いって、ALTLなんちゃってK〜Mのメンバー以上の何者でもなかった。多くの関係者と同じく、タックイン安部個人が私の目にとまったのは、なんちゃっての耐久2戦目となるRd.6、"あの"レースレコードである。
最初に彼を見い出したのは、残念ながら私ではなく、MVS道場師範だった。耐久の決勝レース中、サウストップで各参加者の走りを観察していた師範から、コントロールルームにいた私に無線が入ったのだ−以下は当時の、師範と私の交信記録からの抜粋である。
師範「25番、何秒で走ってる?」
私「どうした?(マシンの挙動が)おかしいのか?」
師範「いや…とにかくタイム教えて」
私(タイミングモニターを確認)
師範「サウストップで、アクセルコントロール使ってる。凄く速いかも」
私「…おおおっ!…に、25秒で走ってる!!」
師範「やっぱ…なにぃっ!に、25秒ぉっっっ!!」
この時の我々の驚愕を説明しておこう。当時のコースレコード(通常のレンタル走行で記録されたタイム)は、エレキング寺倉の26秒425。レースレコード(レースチューンのマシンでのベストタイム)もココリコ田中の26秒162だった。26秒を切るということはひとつの壁で、一般
のエントラントはもちろん、6人の師範代、そして家元と呼ばれるこの私でさえまだ到達していなかった、未知の領域だったのである−唯一人、師範を除いては。
MVSを4年以上も走り込み、コースもマシンも知り尽くしているだけでなく、天性のスピード感覚とひらめき、メカニズムの豊富な知識に基づく徹底的理論、そしてそれを実践する超高度な身体能力。ドライビングに必要とされる総てを兼ね備え、"MVS最速の男"の称号を欲しいままにしてきた師範。MVSにおいての25秒台というタイムは、彼だけに許される孤高の世界であった。それを、この時点では全く無名、ノーマークに等しかったルーキーが記録したのだ。これに驚かずして何に驚けと言うのだろうか。その速さはベテラン達を刺激し、現在では師範代クラスのほとんどが25秒台をマークしている。しかし、タックイン安部はただ速いだけではない。チームメイトの強力なバックアップを受けてスプリントにも挑戦した彼は、参加した2レースともに表彰台に登り、MVSのトップ・ドライバーのひとりとして不動の地位
を築き上げた。そして、まだプラスアルファの要素がある。
彼のレースはアグレッシブそのもので、私の大好きなドラマ性に溢れている。デビューレースで早くも、前述したエレキング寺倉との歴史に残る大バトルを繰り広げた第6戦。先行逃げきりは無理といわれるシリーズレギュレーションと、前回不参加だったTOP2(GH笹森etc.)に果
敢に挑戦して第1ヒートを独走、第2ヒートスタート直後のスピンで初優勝は逃したが、その後も追いすがるGH笹森を見事に封じ込めた最終戦。これらのレースでの主役は紛れもなく、ウイナーではなくタックイン安部だった。
アドレナリンをぶちまけ、絶対的スピードを追い求めたその結果に勝利を夢見るタックイン安部のドライビングはリスキーで、まだまだミスも多い。だが、未完成ということがまた魅力でもある。初優勝が夢ではなくなった時、彼は大いなる前進を果
たすだろう−デビュー当初のアイルトン・セナがそうだったように。
最後に、タックイン安部に対する師範のコメントを紹介しよう。あの、プライドが高くて負けず嫌いで、そうなるだけの確かな実績がある師範がこんなセリフを吐いたのは、後にも先にもこの時だけ、まさに究極の賛辞である。
「…おれより、速いかも…」
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このランキングも、これが最終章である。カウントダウンという形式上、残るTOP2が誰かというのは既に明確である。後は、どちらがナンバーワンか?という事だ。一気に発表してしまおう。
2. GH笹森
出場した4レース中、ポールポジション3回(史上最多)、フロントロー奪取率は100%(全参加者中唯一)。この数字だけでも明らかなように、スピード、そしてマシンコントロール・テクニックにおいては、GH笹森がMVS史上最高であることは疑う余地がない。MVS道場師範と比較しても、足りないのはMVSでの経験だけ、と断言できるだろう。100人を超えるエントラント、そこから選び抜かれたエリートたる6人の師範代、その中でも別
格の存在、それが彼である。はっきり言って、家元と呼ばれるこの私より速い。
速いだけではなく、そのドライビングは力強さを感じる程に正確で、安定している。シリーズ・レギュレーションによって必要とされる、自らのラップタイムの高次元での微調整も、いとも簡単にやってのける。自分の限界を緻密なまでに把握し、それを決して超えることなく、文字どおり100%で走る−それができるのが、GH笹森だ。
…本当に、そうだろうか?
GH笹森が出場した4レース−いや、'98プレ・スプリントも含めると5レースで、彼の優勝は2回である。普通
ならこの勝率は悪くないが、問題は、勝てなかった3レースだ。彼は本当に”勝てなかった”のか?これは、彼が本当に100%の力で戦った結果 なのだろうか?
断っておくが、GH笹森が手を抜いている、と言いたいわけではないし、実際彼は手抜きをしているつもりなどないだろう。「なぜ勝てなかったのか?」と聞けば、彼はいつものように薄笑いを浮かべ、「そういうこともありますよ」と答えるに違いない。
「そういうこともありますよ」。この口癖にこそ、GH笹森が1999MVSスプリント・チャンピオンになりそこねた理由が、端的に現れているのかも知れない。少なくとも表面
上は、負けてもそれを結果として、あっさりと受け入れてしまう性格。逆にいうと、勝利に対する執着に欠けるのだ。ナイスガイかも知れないが、近年のモーターレーシングの世界では、ナイスガイが成功した試しはない。
モーターレーシングはメンタルスポーツだ、とは昔からよく言われているが、近年それは、ただ強靱な精神力が必要とされる、という意味から懸け離れつつある。ボクシングのそれとは違ったハングリーさ、どんなことをしてでも勝つ、という貪欲さが、F1などでシリーズタイトルを獲得するドライバーの必要条件となっている。計算高さや腹黒さを求めているわけではなく(GH笹森は充分に計算されたレースをするし、作戦参謀グランツマスター川口とのタッグは超強力である)、なにがなんでも、なりふりかまわずレースに勝とうとするモチベーションこそが、MVSにおけるGH笹森に欠けている最大の要素なのではないだろうか。
”MVSにおける”と限定したが、実はGH笹森は'99年、南幌で開催されたスプリント・シリーズにも参戦し、こちらでは見事シリーズ・チャンピオンを獲得している。チャンピオンとなるために絶対に勝たなければならなかったレースに望む際、彼は友人であるストーカー三盃に、レースに来てくれるよう頼んだそうである。理由は、シーズン中ストーカー三盃が来たレースでは必ず勝てたから−つまり、げんを担いだのだ。機械のように正確かつ冷静な走りを身上とし、普段も感情をあらわにすることの少ないGH笹森が、げんを担いでまで勝とうとしたのだ。
余談になるが、サーキットを離れたGH笹森は、実に情熱的で興味深い人物である。彼のスキャンダルがプレスルームを賑わしたことも、一度や二度ではない(その点でも、師範の好ライバルである)。…そんな、人間味溢れるGH笹森の姿を、2000年はコース上でも見てみたいものである。
GH笹森。クールでホットなナイスガイ。だが、クレイジーになることがあっても良い…たまには。
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1. スピンナー宮崎
これが、冒頭にかかげた疑問−「もし、GH笹森らが全戦出場していたら、チャンピオンは誰だったか?」−に対する、私なりの解答である。
ここまで、各人の項でも書いてきたように、テクニックではGH笹森が、スピードではタックイン安部が、勝負強さではタオラー太田が、かっこよさではストーカー三盃が、彼よりも明らかに上だろう。これらの総合力でも、GH笹森の方がより高い位
置でバランスしている。しかし彼の、魔性とも呼ぶべき強さと、そこからくる自信は、他に並ぶ者などいない。MVSスプリント初代王者スピンナー宮崎。彼こそ、このランキングの比類なきナンバーワンだ。
雪混じりの雨の中、誰もが初体験のシリーズ・レギュレーションを誰よりも速く理解し、堂々の初優勝を飾った'98プレ・スプリント。予選・決勝第1ヒート・第2ヒート、全ての計時セッションでトップタイムを記録し、PP/FL、そして一度もトップを譲ることなく優勝するというパーフェクトゲームを達成した'99開幕戦。序盤のスピンから冷静に戦略を立て直し、見事な逆転勝利を演じた第2戦。第3戦ではあの”宮崎包囲網”が敷かれ連勝はストップしたが、そのこと自体が既にビッグイベントであった。この頃から、”ストップ・ザ宮崎”を狙って幾度かレギュレーションも変更されたが、それはむしろ火に油だった−めまぐるしく変わるレギュレーションに即座に対応できたのが、スピンナー宮崎だけだったからだ。
彼のベストレースは、第5戦である。ここには書けないある事件によって、このレースでの彼は負けることを許されていなかった。絶対に優勝しなければならなかったのである。勝負は水もの、いかにスピンナー宮崎といえども、このプレッシャーは並み大抵ではなかっただろう。レースでは、M.C.シルバの予想外の挙動に苦戦しながら、それでも彼は勝った。そして、既にタイトルを決めてしまった後の最終戦でも、スピンナー宮崎は手綱を緩めることなく、有終の美を飾った。
彼の魔性の強さ、その理由を戦略性や計算高さだけに求めるのは大きな間違いである。もちろん、彼のレース戦略の緻密さはMVS随一だったことは疑いもない。その場の状況に応じて速やかに作戦を切り替える判断力も優れていた。だが、彼が本当に凄かったのは、自らたてたその戦略を正確に実行することを可能とする、レーシングドライバーとしての情報処理能力だろう。レース前にスピンナー宮崎が毎回コントロールラインに立ち、各者が整列したグリッドを見渡していたのにお気付きだろうか?全ての参加者のカートNo.とマシン(色)、そしてグリッドポジションを記憶していたのだ。そしてレース中は必ず毎ラップ、電光掲示板を確認し、自分だけではなく他のドライバーのラップタイムまで把握し、自分がどんなペースで走ればいいか(第2ヒートで有利になれるか)を計算し、計算通
り実行したのである。必要な情報だけを誰よりも多く収集し、整理し、活用する。それを、予選のタイムアタック中や、決勝でトップ争いをしている真っ最中にやってのけたのだ。まさにマルチタスク、ソフトもハードも最高のレーシング・コンピュータであった。
「計算高い」「腹黒い」といった形容詞がまるでミドルネームのように言われていたスピンナー宮崎だが、憎まれるほどに彼は強かった。逆に、彼を崇拝するものも多い−ピロボール馬場やタックイン安部は、彼を慕い、彼を目標とすることで、いつの日か彼を超えるだろう。
スピンナー宮崎。今やその名はMVSの伝説として、畏敬の念を込めて語り継がれている。”キャブレター事件”など、遺された逸話も数知れないが、ここで記すには紙面
が尽きた。その名は、もう二度とエントリーリストに見つけることができなくなってしまったが、1999MVSスプリント・チャンピオンとして、いつまでも公式記録に残される。そしてあの人なつっこい笑顔は、永遠に人々の記憶に残るだろう。
それが、チャンピオンの価値である。
2000年1月25日〜2月16日 自宅にて(了)
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