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モータービレッジ札幌 若松雄志

*以下の文章は私が、2002年シーズンの開幕にあたって、MVSを運営していく動機や、その経緯などを本音で書き記すものである。文中で述べている意見や価値観等は全て私個人の独断と偏見によるものであり、それらを他人に押し付けたり強要したり、同意を求めたりするつもりは一切ない。また、文中にはいくつか不真面目に感じる箇所もあるかも知れないが、それは決して意図したものではなく、本人はいたってまじめに、事実のみを書いていることを付記しておく。

 出会いは、中学生の時だった。
 もちろんその前から、「レース」というものを知ってはいた。幼い頃からクルマに乗るのが大好きだったし、誰もいない原っぱで運転したこともある。まだペダルに足も届かなかったので、シートの前にもぐるように座ってエンジンをかけ、前方視界ゼロで30km/hくらい出した記憶がある。恐いなんて全然思わず、ひたすらおもしろかった。
 もちろん公道を走れるわけではないので、普段はもっぱら自転車で、クルマを運転しているつもりになって走り回っていた。そんなある日、今はもうあまり見かけない、おばちゃんが一人でやっている小さな本屋でみつけた自動車雑誌(確かモーターマガジンだったと思う)で立ち読みしたひとつの記事ーそれが、モータースポーツとの出会いだった。
 <F1チャンピオン、奇跡のカムバック>
 それは、 当時の日本では全くマイナーなスポーツであったがため、自動車雑誌でさえあまり取り上げることのない、自動車レース、そしてモータースポーツの頂点・F1GPの記事だった。
 <ドイツGPで瀕死の重傷を負い、容態が危ぶまれていた昨年の世界チャンピオン、ニキ・ラウダが、事故から僅か1ヶ月後のイタリアGPで、驚異のカムバックを果たし4位に入賞した。ラウダはドイツGPレース中にコースから飛び出しガードレールに激突、マシンは炎上し全身に大火傷を負い、一時は生命の危機にさらされていた。イタリアGPでもレース中、火傷を負った顔面から出血するほどだったという>
 1ページのさらに8分の1くらいの、小さな記事だったが、気がついたときには、その雑誌を持ってレジに直行していた。家に帰っても夢中でその記事を眺め続け、もっと情報が欲しくて再び本屋に出かけた。そこで今度は専門誌オートスポーツを見つけ、それでその月の小遣いは全部使ってしまった。
 ドアが開くような感じ。
 なにかを見つけた。そういう感じがした。

 高校にあがり、3年になる頃、周囲は当然進路のことで騒ぎ始める。当時の同級生は一人を除いて全員、進学組だったが、その一人、おれだけが就職を希望して、先生や、友達すらにも反対された。だがおれにはこれっぽっちも迷いはなかった。もう決めていたのだ…おれはレーサーに、レーシング・ドライバーになるのだ。

 レースをするにはお金がかかる。それも、学生のバイト程度でどうにかなる額じゃない。大金持ちのボンボンでもなんでもないおれにとっては、就職して資金を稼ぐのが一番だと思った。
 とは言っても、具体的にどうすればいいかなど、当時のおれには知る由もなかった。まだHSPもなく、テレビでもレースをやるのは年に数回。雑誌も非常に少なく、内容もメジャーなレースの記事ばかり(それも、誰かが事故で死んだとかいう時だけ)。カートはあったかも知れないが、おれはその存在すら知らなかった。全国的にも、サーキットといえば富士・筑波、そして鈴鹿の3つだけ…そうだ、鈴鹿だ。富士や筑波はハコのレースは盛んだがフォーミュラはやってない(*当時)し、F1ドライバーになるんだったらフォーミュラをやるしかない。フォーミュラと言えば鈴鹿。鈴鹿に行けばいいんだ。でもどこにあるんだ?三重県か。で、三重県ってどこだ?
 ふと新聞を広げると、とある求人広告が目に飛び込んできた。
 <本田技研工業 "鈴鹿"製作所 季節従業員募集>
 これだ!
 当時のホンダといえば、まだようやくF2(現在のF3000)エンジンを開発し始めたばかりだったがそれはどうでもいい。要は鈴鹿に仕事がある!ということだ。親戚や知り合いがいるわけでもないおれが鈴鹿にいって、独りで生活どころかレースをやろうとするなら、まさにうってつけだ!
 高校の進路相談の先生に聞くと、「そんなところから札幌に求人が来るわけないだろう!」と怒られたが、そんなことやってみなきゃわかるもんか。親に本当のことを言えば反対するに決まっていると思っていたので、「本田宗一郎にあこがれて、ホンダで働きたい」とかなんとか適当なことをいって、おれはホンダに「就職させてくれ!」と手紙を書いてみた。すると、なんと正社員で採用されてしまったのだ。
 こうしておれは、北海道を飛び出した。
 1982年、18になったばかりだった。

 1982年、鈴鹿。
 まだシケインのない、超高速最終コーナーで、生まれて初めて見た生のレースは、F2開幕戦。ホンダエンジンの中嶋が勝ち、スーパールーキー高橋徹がデビュー戦でいきなり2位になったレースだ。よし、当面の目標はこいつだ。こいつより先に、F1に行ってやる!日本人初のレギュラーF1ドライバーになってやるんだ!
 新入社員は入社後半年間運転禁止!というホンダの社則や、初めての給料を給料日に盗まれたりと、いろいろ障害はあったが、なんといってもここは日本のモータースポーツのメッカ、鈴鹿だ。すぐに様々な知り合いができ、これからレースをはじめるにはどうすればいいか、ライセンスのことからクルマのこと、練習のしかたまで、実にたくさんのことを教わった。北海道にいたら、絶対知り得なかったことばかりだ。悲しいこともたくさんあった。5月には、おれのあこがれだったジル・ヴィルヌーヴが事故死。当面の目標であり、鈴鹿のドライバーズ・サロンで1度だけ話をしたこともあった高橋徹も、10月の富士で死んでしまった。さらにその直後、メカニックとしておれの練習をいつも手伝ってくれていた3つ年上の先輩が、一般道路でもらい事故で亡くなってしまった。ほんとうにいろいろなことを教えてくれた、とてもいい人だった。ショックで寝込みそうになったが、こういった出来事が逆に、おれのモチベーションをいっそう強固にした。
 親は、「レーサーなんて将来性がない」「安定した収入があって、貯金できるのが一番」と言って反対したが、人間一寸先は闇だ。いくらコツコツ働いて、将来のことをしっかり考えていても、明日交通事故で死ぬかも知れない。死んだらそれで終わりだ。それなら、生きているということが確かな今この瞬間、好きなことを好きなようにやらないでどうする?もちろん、好きなことやり続けていくためには、目標を達成するためには、ある程度の計画性は重要だが。
 こういう考え方は、その後のおれの生き方の基準、現役で走る事は止めた今現在でも、物事を決める上での全ての前提となっている。稚拙だと笑う人もいるだろうが、今後もこれを改める気は全くない。刹那的だが、後悔したことは一度もないし(反省することは多々あるが)、これからもないだろう。

 F1ドライバーになる!というおれの目標は結局達成できず、夢として終わった。
 1983年にFL-B(軽360ccのエンジンを積んだ日本独自のフォーミュラ)でレースを始め、'84年にFJ1600にステップアップ。貧乏ドライバーが古いマシンで走っていたから目立ったのか("赤い流星"と渾名されたのはこの頃だ。笑)、'86年、某有名レーシング・チームからお声がかかり、短期間だがプロのレーシング・ドライバーとして、給料をもらって走ったこともあった。別の有名チームの誘いでF3のテストを受けることになり、富士で行なわれたそのテストの2日目、30周くらいしてタイヤを変え、タイムアタックするため全開で飛び込んだ1コーナーでいきなり左フロントのロアアームが折れ、大クラッシュして全身十七ケ所を骨折する大怪我を負ってしまった。見ていた人に後で聞いたところによると、「ヴィルヌーヴとラウダの事故が同時におきた」みたいだったといい、5メートルくらい飛び上がってノーズからコースに激突、炎上したそうだが、炎上した記憶は欠如している。明確に覚えているのは、真正面にアスファルトが壁みたいに迫ってくる映像だけだ(今でもたまに、夢で見ることがある)。
 サーキットでの事故はもちろん初めてではなく、怪我をしたのも2回目(1回目はFJで走行中に、飛んできた小石がシールドを突き破って目に当り、失明しかけた
)だったし、後遺症などもなかったし、この怪我でレースを止めようなんて全然考えなかった。だが壊したF3を弁償しろといわれ、また入院費や治療費はともかく、その間仕事もできず収入もなく、借金だけが莫大な金額になっていた。
  退院してからの3年間は、生き地獄だった。借金を返すためだけに、1日23時間働いた。いろんな仕事を経験したが、その中にはここにはとても書けないようなものもある。だがとにかくもう1度サーキットに戻るためなら、どんなことでもできた。
 そして'89年。再び中古のFJを買い、再び鈴鹿を走ることができた。

 北海道を出て鈴鹿にやってくる時、心に決めた誓いがあった。
 25。25才までやってそれでも芽が出なかったら、すっぱりとやめる。
 何度もいうが、モータースポーツは金がかかるスポーツである。資金調達も、このスポーツの一部分であるかも知れない。おれのような人間が、趣味でだらだらと続けられるものではないのだ。
  おれはこの時、すでに25になっていた。この1年が、最後の勝負だ。
 3年ぶりのレーシング・ドライブは、決して悪くはなかった。以前の感覚が、走り始めてすぐに、新鮮に蘇ってきた。鈴鹿のコース自体は、F1をやるようになって大きく変わり、目に入る景色も違うサーキットのようだったが、ドライビングにはなんの影響もなかった。マシンも中古とはいえ戦力充分で、とても乗りやすく、タイムもすぐに出た。久しぶりにおれのために集まってくれた以前の仲間達も、すごく喜んで期待してくれていた。だけど…
 なにかが違った。最初の走行ではそれは、ブランクのせいだと思っていたが、その後も何ヶ月も、走れば走るほど、そうじゃないことに気づいていく。ではなんなんだ?
 走ることはものすごく楽しかった。エキゾーストノートが、ガソリンの匂いが、加減速や横Gが、タイヤとアスファルトの感触が、ヘルメットごしの風が、全てが心地よかった。130Rのアプローチで、アクセルペダルから右足が、親指から浮いてこようとするのを押さえ付ける時の気分も以前と変わらず、その恐怖心もまた好きだった。
 あれから12年がたった今でも、あの時の気持ちはうまく表現できない。ひとつの結論としておれなりに考えられるのは、こうだ…。
 「これ以上はもう、速く走れない」
 自分の限界を、無意識に感じたんじゃないかと思う。そう感じたことが正しかったかどうかは、今もってわからない。あのまま続けていれば、F3ぐらいはまた乗れたかも知れない。だがたぶん、いや絶対に、F1まで行くのは無理だったろう。

 その時おれは、もうやめようと決めた。すっぱりと。

 札幌に帰ってきてしばらくは、なにも出来ない毎日が続いた。どうやらおれは、邁進すべき目標がないと、生きていけない人間らしい…だが、レースをやめた今、なにを目標にすればいいのか?10代の頃からの最も多感な時期を、そのことだけを考え、他人の迷惑も顧みず、自分の為だけに生きてきたのだ。逆にいえば、レ−ス以外のことでなにかひとつでも、おれに出来ることなんてあるか?非常識に、長いものに巻かれることを拒否してきた代償を、これから払っていかなくてはならない。
 おれが鈴鹿での8年間で得た経験。なんとかこれを活かしたい。そう思っていたところに、ちょうどタイミングよく、「NISMOパドックin札幌」がオープンした。他では役立たずのおれの経験も、ここでならむしろ重宝されるだろう。結局、自分で走らなくても、レースをやめるなんて出来ないのだ…おれにはそれしかないんだから。
 時代は変わろうとしていた。バブルがふくらみ、F1ブームという、おれの10代の頃には考えられなかったものがやってきて、それまではモータースポーツなんてものには見向きもしなかった企業が、こぞってお金をばらまき始めた。これまであまり日の当ることのなかったこの業界にも、春がきたという感じがした。
 だが、本当にそうだろうか?モータースポーツは派手なスポーツで、華やかな部分はとことん豪華だ。しかし、底辺で活動している人たちや、これからレースを始めようとしている人たちにとってはどうだろう?金がかかるという意味では、むしろ以前よりさらに潤沢な資金が必要とされるようになってしまった。レースを観る人はすごく増えた、やってみたいと思う人も増えただろう。だが、実際に始めることが出来る人は、どれくらいいるだろう?
 そういう人たち、やってみたいとは思っているものの、どうすればいいかわからない、またはきっかけが欲しいという人たちにとっては、おれの経験、鈴鹿での8年間は、いい道標になるかも知れない。
 以来現在まで、これがおれの目標、というか夢になった。 これを実現するための手段として、NISMOをはじめ、F1グッズ・ショップの「CLUB ANGLE」、中古車販売・イベント会社なども利用させてもらった。そういったところで働くことで、そこに集まる多くのモータースポーツ・ファンを、ファンからプレイヤーへと導いてきたつもりだ。この間'93年に十勝スピードウェイがオープンした際には、「北海道でもFJを盛り上げたい」という主催者に頼まれて、一時的にドライバーとして走ったこともある。そんななか出会ったのが、レンタルカートという、気軽に、しかも少ない資金でもできる、おれの夢にとっては願ってもない、うってつけのモータースポーツである。
 ただ走るだけでなく、レースをする楽しさ、素晴らしさを広く普及したくて、レンタルカートだけのレースシリーズ・イベントを企画し、'95年のフォルサ・カップ(バンケイ)ではほんとうにたくさんの人たちが参加してくれ、楽しんでもらうことができた。小さなレンタルカート・コースでも、 鈴鹿のように立派な設備はなくても、そこで走る人たちの、真剣にレースを戦う姿や、走り終わったあとの笑顔に、違いは感じられない。

 現在。
 21世紀も2年目を迎えた。
 '98年にモータービレッジ札幌に関わりはじめて、今年は5年目のシーズンである。
 この間、そして現在も、平穏な、という言葉とは程遠い、波高い毎日だ。いろいろな問題があるし、これからもそうだろうと思う。期せずして経営者という立場にもなってしまったが、これも夢実現のための手段としてしかたないと考えるようにしている。
 手前みそで恐縮だが、MVSというレンタルカート・サーキットは、初心者・入門者がモータースポーツ、そしてモーター・レーシングの楽しさ・素晴らしさを気軽に味わうということにかけては日本一だと自負している(あくまで"気軽に"というところがポイントだが)。 こういう場所をうまく利用して、これからも一人でも多くの人が、モータースポーツに触れ、浸り、はまっていって欲しい。ほんのきっかけ程度にしかならなくてもいいのだ。そのためにはもちろん、たとえば施設の充実だとか、これからも課題は山ほどある。

 なんだかまとまりのない、独り言のような文章になってしまったが、ここまで読んでくれた人には感謝したい。自分のことを語ったりするのはあまり好きではないし苦手なので、ここに書いたようなことを、今後おれがまた書いたり、MVSで話したりすることは、これが最初で最後だと思う。すぐに削除してしまうかも知れない。今回こういう文章を記すことにしたのは、次のような事由による。
 ニキ・ラウダの事故が1976年。あれからもう、25年もの年月がたっている。25年といえば4半世紀というくらいで、ひとつの区切りかな?と思えたから。
  そして、現在おれが、MVSをやっていく理由、モチベーション、夢。そうなるまでの経緯、動機。おれが独りでやっている現状では、これがすなわち、MVSの存在意義だとも言える(私物化するつもりは全くないが)。2002年シーズンの開幕にあたり、それをちょっとでも理解していただけたら、と思ったのだ。いや、こんなこと考えてやってるんだ、と、知ってもらえるだけでも充分だ。それはそれとして、みなさんにはそれぞれ、自分なりのスタンス、楽しみ方で、モータースポーツを体感していっていただきたい。

 MVSをやっていると感じられる、嬉しい驚きがある…それは、人間の持つ可能性だ。
 ふらっと山に遊びに来て、初めてカートに乗り、いきなり素晴らしいセンスを見せてくれる人がいる。走り方をちょっとアドバイスしてあげただけで、見違えるようなドライビングをする人もいる。誰に教わったわけでもないのに、驚異的なタイムをマークしてくれる人もいる。
 こういうたとえもある。
 「 アフリカには100人のシューマッハがいる。ただ誰ひとりとして、モータースポーツというものを知らないだけだ」
  つまり、才能などそこら中に転がっており、問題なのは、やろうという意志の力なのだ。
 25年、いや10年前ですら、日本人がイギリスF3チャンピオンになれるなんて、マンガの世界だけの話だった。日本人が大リーグでMVPを取るなんて、マンガですら描かれなかった。それが今では実現している。日本が突然、スポーツ王国になったわけではない。彼らが世界に目を向けて、初めて実現したことだと思う。
 MVSがきっかけでモータースポーツを始めた、北海道出身のF1ドライバー、
 
夢ではないだろう。強い強い意志の力があれば、人間には、どんなことでも出来るのだ。

 We will go,whatever happensーなにがあっても、やってやる!



(了)2002年4月3日

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